アクション, エンタメ

桜花郷-さくらどこ-

 

 

(27分46秒)
幼き頃、町を平和にすると誓った翔、一之介、なぎさ。
時は寛永14年、舞台はとある城下町。
そこは大名の悪政で人々は“下人”として虐げられていた。
 

大名の佐竹は下賎の遊郭で役人の九兵衛が金を落としていたことに憤慨し、見せしめに遊女皆殺しの命を下す。
その遊郭がなぎさのいる”三田屋”だと 知った翔は駆けつけ、なぎさを見つけるが、役人の一人、京平に見つかってしまう。
 
翔は刀を抜き、立ち向かうが力及ばず追いつめられる。間一髪のところで一之介が現れ京平を止める。
一之介が来たことに安堵する翔となぎさ。
 
しかし一之介は刀に手をかける。時を経て、再びめぐり会う三人。
下級武士の翔、役人の一之介、遊女のなぎさ、立場と感情が相反し複雑に交差していく。
 
その結果にある結末とは・・・。そして三人の絆は・・・。
 
東京フィルムセンター映画・俳優専門学校 2013年度 学生優秀作品
 
【監督】宮地 薫
 

– YouTube 引用 –
 

関連サイト
宮地 薫
http://www.movie.ac.jp/information/works/index.html
 

■時代背景
寛永14(1637)年は、徳川将軍は、三代目の徳川家光でありました。
 
徳川家光は、前年の寛永13(1636)年に、各藩の藩主を定期的に、江戸へ出仕させる参勤交代が始めさせました。

(藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵/画像出典Wikipedia)
 
そして、寛永14年は、ちょうど島原の乱が起こっている時代です。
 
寛永14年から翌年15年(1638年)に起こった島原の乱は、肥前島原(現在の長崎県)・肥後天草(現在の熊本県)での農民一揆です。
 
幕府のキリシタン弾圧と領主の苛政に対して、天草四郎を首領として農民軍が蜂起しました。
 
実は島原の乱が起こった背景には、宣教師によるキリスト教の布教がありました。
当時、宣教師は布教活動を行うとともに、地域住民をキリスト教へ改宗させました。
そして、改宗者が十分に揃ったところで、その宣教師の国から軍隊を送り、改宗者が現地の政権に反抗するように仕向けるという役割がありました。
 
キリスト教宣教師は、植民地支配の尖兵としてスパイ活動をおこなっていたのです。
そうしたことを知った江戸幕府は、島原にてキリシタン弾圧を実施して、その抵抗が苛烈なものとなったのでした。
 
また作品の背景となる遊郭の時代背景についてです。
 
遊郭は、大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えました。
特に、新町の夕霧太夫、島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫などは寛永三名妓と呼ばれていました。
 
同じ島原という地域の名称ではあっても、京都島原と肥前島原では大きな違いがありました。
 
島原の乱が終わると、肥前長崎の丸山では、寛永19年(1642年)に、市中の遊女屋が全て丸山の地に集められて丸山遊郭として、また、西洋との唯一の窓口である長崎は、貿易を行う都市としても繁栄するようになります。
井原西鶴の「日本永代蔵」には丸山遊郭を評した記載がみられます。
 
そして寛永時代(17世紀前半から半ばまでの間)を中心として、寛永文化が花開いた時代でもあります。
寛永文化は、ようやく戦国時代の戦乱の世も終わって、武家と公家、上流階級の町人たちにより誕生してきたのが特徴の文化になります。
 

建築では、清水の舞台として有名な清水寺の本堂が、寛永10(1633)年に徳川家光の寄進により建築されました。
そして、徳川家光が祖父、家康のために大々的に改築を行ったのが日光東照宮です。
現在でも多くの建物がが当時のもので、寛永12(1635)年に建築された陽明門は、特に日光東照宮で代表的な門になります。

(出典 Wikipedia)
 
一方絵画では、京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり)が、寛永14年からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に、妙光寺に寄贈するため、俵屋宗達に「風神雷神図」の製作を依頼したとされています。

(出典 Wikipedia)
 
戦国時代が終焉したとはいえ、江戸幕府の地盤を固めようと政治はまだ不安定であり、それに対して、文化は非常に栄えた時代でもありました。
 

のぶにゃが

 

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